室温で駆動する新しい量子トンネル磁気抵抗効果の発見
―― ピコ秒帯域で駆動する超高速・高密度・低消費電力メモリの開発へ大きな一歩 ――
1.発表のポイント
- 近年、現状のシリコン半導体技術の性能を超えた高速、かつ、低消費電力な情報処理技術の開発が強く求められている。従来型の低消費電力な不揮発性の磁気抵抗メモリ(MRAM)は強磁性体の磁化が必要であり、そのため処理速度はギガヘルツ(GHz)帯域(ナノ秒帯域)にとどまっていた。この常識を破る『磁化が不要な量子トンネル磁気抵抗効果』の実現に初めて成功。
- MRAMの心臓部であるトンネル磁気抵抗素子の磁性層に、磁化を持たない反強磁性体が適用可能であることを実証。
- SRAM代替が可能なテラヘルツ(THz)帯域(ピコ秒帯域)で駆動する超高速・高密度・低消費電力メモリの開発へ道を拓く。
2.発表概要
東京大学大学院理学系研究科、物性研究所、および先端科学技術研究センターの研究グループは、反強磁性体(注1)Mn3Snが磁化を持たないにも関わらず室温で量子トンネル磁気抵抗効果(注2)を示すことを世界に先駆けて発見しました。
Mn3Snは磁化を持たないにも関わらず巨大な異常ホール効果(注3)を示すことが知られていました。今回の、電気的な出力を飛躍的に増大させることのできる量子トンネル磁気抵抗効果の発見は、これまで不可能と思われていたTHz帯の動作速度で駆動する超高速・高密度・低消費電力メモリの実現に向けた大きな一歩です。本発見は今後大きく注目される量子技術であり、アカデミックなインパクトのみならず、産業界においても大きな波及効果をもたらすことが期待されます。
近年の情報技術、AI、IoTの発展により、データトラフィックは指数関数的に上昇し、データ処理・伝送に必要な消費電力の削減が大きな課題になっています。また今後のクラウドやエッジコンピューティングを用いた自動運転や遠隔医療、工場の自動操業などのサービスの実現には大量のデータを高速で処理する必要があります。そのため、現状のシリコン半導体技術の性能を超える高速、かつ、低消費電力な情報処理技術の開発が求められています。このような状況の中、待機時に電力を必要としない不揮発性メモリ(注4)として、現在、商業化が進んでいるものに磁気抵抗メモリ(Magnetoresistive Random Access Memory: MRAM)(注4)があります。
MRAMは不揮発性による低消費電力のみならず、繰り返し耐性が非常に高いことからもDynamical RAM(DRAM)(注5)に取って代わる次世代のメモリとして注目されています。しかし、MRAMの動作周波数は100MHzから1GHz程度であり、Static RAM(SRAM)(注5)の置き換えにはスピードが足りません。そこで今後の情報処理と伝送のさらなる高速化を見据えて、(i) SRAMよりも高速な1THz程度での動作が可能であり、さらに (ii) 複雑な構造のSRAMよりも大幅に微細化可能なMRAMの開発が望まれていました。 THz動作特性を持つ磁性体としては反強磁性体が知られています。従って
THz動作特性を持つ磁性体としては反強磁性体が知られています。従って、MRAMに使われている強磁性体(注1)を反強磁性体に置き換えることにより高速化が可能となります。また、反強磁性体は磁化が無視できるほど小さいため、素子化した際に磁性層間の漏れ磁場の影響を受けない性質があります。従って、大幅な微細化も期待できます。
一方で、反強磁性体が有する、磁化がないあるいはごく小さいことによる利点は、反強磁性体への情報の書き込み及び読み出しが困難であるという課題にもなります。反強磁性体への書き込みについては、本研究グループにより強磁性体の場合と同様のスピン(注1)軌道トルクという手法を用いた新規書き込み方法が見出されています(2020年及び2022年にNature誌発表)。読み出しについてはMRAMで必須の量子トンネル磁気抵抗効果の利用が望ましいとされますが、この効果は磁化を持つ強磁性体でのみで観測されるため反強磁性体では現れないと考えられてきました。
本研究グループは、特異な磁気構造とトポロジカルな性質を持つ反強磁性体Mn3Snを用いて、世界で初めて反強磁性体において量子トンネル磁気抵抗効果の観測に成功しました。今回観測された磁気抵抗の変化は1~2%です。さらに、理論的には現在強磁性体で見られる値と同程度まで増強可能であることも明らかにしました。今後、THz帯域で駆動する超高速MRAMの開発が期待されます。
本研究成果は英国の科学誌「Nature」において、2023年1月18日付けオンライン版で公開される予定です。
3.発表内容
研究の背景
シリコンベースの半導体は今や2 ナノメートル(nm)プロセスの時代に入りました。しかし、高性能化の鍵となる情報記録密度の増加は年々鈍化の一途をたどっています。また、情報処理速度を上げるためにはこれまで以上の電力が必要です。従来は「半導体回路の集積密度は1年半から2年で2倍となる」というムーアの法則により、半導体チップの小型化・高性能化が進むことで半導体の製造コストが下がると予想されてきました。しかし、ムーアの法則の破綻が明確になりつつある現在、情報処理原理の刷新が喫緊の課題です。そのなかで重要な技術の1つが MRAMです。
2020年頃からSamsung、TSMC、Intelなど巨大半導体企業がMRAMの量産を始めましたが、その処理速度は10ナノ秒(1億分の1秒)程度であり、半導体メモリのうちメインメモリであるDRAM代替が進められています。現在はさらに高速な処理速度(0.1~1ナノ秒)が要求されるSRAMを不揮発性メモリに代替することが期待されています。MRAMの処理速度の大幅な向上の鍵を握るのが、次世代のメモリ媒体として注目されている反強磁性体です。反強磁性体は強磁性体よりも2~3桁早い動作周波数、すなわち100 GHzから1 THzを有します。それゆえ、MRAMの心臓部にある強磁性体を反強磁性体で置き換えることができれば、(i) SRAMよりも高速な1THz程度での動作が可能であり、さらに (ii) 複雑な構造のSRAMよりも大幅に微細化が可能なMRAMの開発が視野に入ってきます。しかし、反強磁性体MRAMの実現には、MRAMの心臓部である磁気トンネル接合(Magnetic Tunnel Junction: MTJ)素子(注2)を反強磁性体で作製し、「0」と「1」の情報に対応する電気信号を制御・検出する技術の開発が必要です。制御に関しては、本研究グループにより強磁性体同様のスピン軌道トルクという手法を用いた新規書き込み方法が見出されています(2020年及び2022年にNature誌発表)。しかし、読み出しとして必須のトンネル磁気抵抗効果は、これまで磁化が必要と考えられており、磁化を持たない反強磁性体ではトンネル磁気抵抗効果の利用は不可能とされていました。
研究内容と成果
本研究グループはマンガン(Mn)とスズ(Sn)からなる反強磁性体Mn3Snにおいて、強磁性体でのみ現れると信じられていた磁気的な効果、すなわち異常ホール効果や異常ネルンスト効果(注6)、磁気光学カー効果(注7)などの読み出し信号を室温で検出できることを明らかにしました。これらの信号は、非共線反強磁性スピン構造(注1)を示すMn3Snが磁化に類似したクラスター磁気八極子偏極(注8)を持つことに由来します。そしてこのクラスター磁気八極子偏極に対応するワイル半金属と呼ばれるトポロジカルな電子構造が重要となります。強磁性体の巨大応答性と反強磁性体の超高速性を併せ持つMn3Snは、現在、世界各国の多くの研究グループにより機能性反強磁性体として研究されています。
現在、半導体企業が量産しているMRAMの構造を図1に示します。情報の読み書きはトンネル磁気抵抗効果を発現するMTJ素子が担います。MTJ素子は主に強磁性層/トンネル障壁層/強磁性層から構成されており、2つの強磁性層の磁化方向が平行及び反平行になることで「0」と「1」の情報を保持します。
本研究では強磁性層を反強磁性体Mn3Snで置き換えたMTJ素子を作製しました。反強磁性体は強磁性体のような大きな磁化を持ちません。しかし、Mn3Snには類似の機能を有するクラスター磁気八極子偏極があり、この偏極を制御できます。本研究グループはMn3Sn-MTJ素子を構成する2つの反強磁性層のクラスター磁気八極子偏極が平行な状態と反平行な状態を作り(図2a)、室温で磁気抵抗効果を測定しました。その結果、反強磁性体のみからなるMTJ素子で初めてトンネル磁気抵抗効果の観測に成功しました(図2b)。今回確認できた磁気抵抗効果の変化は1~2%程度ですが、理論計算から、この抵抗変化比は現在強磁性体で見られる値と同程度(100%程度)まで十分増強可能であることも併せて明らかにしました。
今後の展望
MRAMの強磁性体部分を置き換えても機能しうる反強磁性体としては、強磁性体と同じ磁気対称性を持ち磁化の代わりをするクラスター磁気多極子偏極を有する磁性体が考えられます。この条件を満たす反強磁性体の有望な候補物質は、現在のところ本研究グループが開発したMn3X (X = Sn, Ge) 系のみです。MRAMの基盤技術であるMTJ素子の開発は、アカデミックなインパクトのみならず、従来のシリコン半導体に比してより高速で低消費電力な情報技術に繋がる可能性を秘めており、産業界においても大きな波及効果をもたらすことが期待されます。また、今後の日本のポスト半導体産業の育成にも大きな効果をもたらすと考えられます。
最後になりますが、クラスター磁気多極子がつくる量子的なトンネル電流が室温で実現しうるのか?これは物性物理学における真に興味深い問いです。本研究グループは理論的にMn3SnのMTJ素子が現在のMTJ素子の材料系(強磁性の鉄(Fe))とほぼ同程度のトンネル磁気抵抗効果を有し得ることを示しました。これはスピン分裂したバンド間の運動量を保存した電子のトンネル現象という非常に興味深い量子科学の基礎的主題に対する大きな知見でもあります。このように、今回の成果はアカデミックおよび産業界の両方に大きく貢献する量子技術であり、今後の研究開発の一大分野に発展すると期待されます。
本研究は、科学技術振興機構(JST)未来社会創造事業 大規模プロジェクト型(JST-MIRAI)「トリリオンセンサ時代の超高度情報処理を実現する革新的デバイス技術」研究領域(運営統括:大石善啓)における研究課題「スピントロニクス光電インターフェースの基盤技術の創成」課題番号 JPMJMI20A1(研究代表者:中辻知)、戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(JST-CREST)「トポロジカル材料科学に基づく革新的機能を有する材料・デバイスの創出」研究領域(研究総括:上田正仁)における研究課題「電子構造のトポロジーを利用した機能性磁性材料の開発とデバイス創成」課題番号 JPMJCR18T3(研究代表者:中辻知)などの一環として行われました。
添付資料:

